主な施工エリア
●愛知県 名古屋市
【あ】熱田区
【か】北区
【さ】昭和区
【た】千種区/天白区
【な】中川区/中区/
中村区/西区
【は】東区
【ま】瑞穂区/緑区/
港区/南区/
名東区/守山区
【や】【ら】【わ】
●その他 愛知県
【あ】あま市/愛西市/
阿久比町/安城市/
一宮市/一色町/
稲沢市/犬山市/
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【か】春日井市/蟹江町/
蒲郡市/刈谷市/
北名古屋市/清須市/
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【た】高浜市/武豊町/
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【な】長久手町/西尾市/
日進市
代表取締役 大嶋浩の
泣き笑い職歴
第1話 最初の職場
就職した会社は
株式会社★★★
という会社でした。
関西の会社でした。
就職会社決定のときのことは
忘れられません。
1982年夏、ゼミのS教授に
呼び出されての会話。
S教授(構造のゼミの先生)
『オオシマクンは、
関西にある★★★
に行かないか?』
私
『はあ』
S教授
『求人がきているのだが、
それをみると
そこ の求人内容が
合っているかと・・・』
私
『どういう求人
だったのですか?』
S教授
『どうって・・・(笑)
とにかくお前に
合ってるから・・(笑)』
その後就職担当の
X教授に会って
意味が分かりました。
私
『S先生に★☆★は
お前に合ってる
といわれたのですが、
どういう意味でしょうか、
わかりますか?』
X教授
『はははは、★☆★の
就職担当さんが
私に言ったのは
”とにかく元気な人を
お願いいたします”
ということだったのだ』
そして初めての関西圏に。
職場の人間には
恵まれました。
かわいがってもらって、
なおかつ名古屋へ
週末に帰る新幹線代も
ありがたく、
4人で何時間も向かい合って
座っているうちに・・・
(今はこんなこと
書いていけないらしい!)
仕事は毎日鉄筋の本数を数え、
配筋写真を撮り、
コンクリートのミキサー車の
台数を数え、現場で
トラブルがあると
最初にすっ飛んで行く
役目でした。
周りに恵まれて楽しい思い出が
多かったのですが、
大きな会社ゆえに
建物全体部分に係わる
という実感が
無かったのでしょう。
考えてみればお客さんの顔が
見えない仕事に
達成感が無かったというのが
本音でしょう。
そして実務経験が2年過ぎ
1級建築士の受験資格ができ
お客様の要望と自分の提案が
ぶつかってもいいから、
その結果
”良いものができたね”
と直接お客様に言われるこ
仕事をしたいと思い始め、
それには設計を学び
設計士としての仕事がしたい
という思いがだんだんと
沸いてきたわけです。
そして若き私(当時26歳)
は入社2年で
『私はこのままではいけない』
と衝動的に退社を決意。
就職のお世話をしていただいた
大学にも連絡しないで退社を
決めた大馬鹿者でした。
先に転職先を
決めるわけでもなく、
名古屋に帰ってきた私は
早速S教授に謝りに学校へ
行きました。
私
『すみません、
折角推薦していただいて
入った会社を2年で
辞めてしまいました』
S教授
『そうか、今後はどうする
つもりだ』
教授は怒るわけでもなく
淡々とつづく会話。
私
『実は、まだ何も
決めてないのです。
設計の勉強をしたいなと
漠然と思っている
ところなのですが・・・』
S教授
『オオシマクン時間あるか?
2期生で設計事務所を
開いている先輩がいて
人が欲しいといってたが、
逢ってみるか?』
私
『は、はい、
(こんな展開になるとは、
心の準備が全然して
なかったけど、
これも流れだ)
お願いします』
S教授はメモをめくり、
おもむろに電話を掛けだした。
こういった経緯で
設計事務所に入所し、
それからは勉強、勉強の嵐が
私を待ち受けていたのだった。
第2話 時短設計事務所勤め
名古屋にノホホンと
帰ってきた私は
大学の先輩の設計事務所に
もぐりこんだまでは良かった。
入社して驚いた。所員が皆若い。
所長は16年違いだから
当時42歳くらい。
(私は当時26歳)所長を除くと
私より1つ年上の所員が一人
あとは同級生が1人、
私より1歳したが1人!
さぞかし和気あいあいした
職場と想像されても
不思議はないのですが、
実はそうではなかったのです。
所長は設計事務所らしくなく、
朝はきっちり
8時30分から仕事を始めて、
夜は5時に終われという。
拘束時間は本当に少ない
若者には優良会社。
しかし最初の週で生まれて
始めてのひどい肩こりに
襲われ、整体に通うことに。
何より時間の経つのが
物凄く長く感じられるのだ。
なぜなら社員の会話が
ほぼゼロの事務所
だったのだ。
会話の無い1分1秒がこんなにも
長く感じるものだとは!
そういった場で
新たに良い人間関係は
構築したくても
若かりし大嶋には
その力はなかった。
でもその事務所での仕事で
私のその後の建築人生を
ある意味方向付ける出来事が
起こったのですから、
その事務所には感謝しなくては
いけませんね。
私のその事務所での最後の仕事は
大阪の分譲住宅会社との
打ち合わせでした。
図面を持って新幹線に乗って
大阪に打ち合わせなんて
かっこいいなあと思いつつ、
どんな人と打ち合わせ
するのだろうか?
という不安もあった。
というのは、実は私は
そのプロジェクトの担当
ではなく、わけあって
急遽ピンチヒッターとしての
打ち合わせだったのです。
第3話 大阪の夜
私はそのプロジェクトの仕事
の流れすらわからずに、
所長の指示もほとんど無く、
所長
『オオシマクン、大阪行って
打ち合わせしてきてくれ!』
との指示のみで新幹線に
乗ったわけなのです。
緊張の打ち合わせ。
平面図、立面図など、
持っていったものの説明を
ナントカ無難に進める私。
”よしよし、これなら
スムーズに
打ち合わせは終わり
どこかで一杯飲めるなあ、
★★★時代の仲間に電話して
今日はどこかでゆっくりして
今晩は泊まって
いけそうだな・・・”
と内心、他事を考え出した
そのとき、
『ところで、伏せ図は
持ってきてないの?』
『??? ふっ、
ふせずですか』
頭の中がぐるぐる回りだした。
”ふせずって、
伏せ図だよなあ、
土台とか梁とかの
構造骨組みの図面だよなあ、
存在は知っていても
描いたこと一度も無い
じゃないかあ、
そもそも大工さんが
描く図面だよなあ、
設計事務所ではあまり
描かないよなあ”
実は日本の大学教育では
木造の構造については
授業自体無いことを
ご存知でしょうか?
そして設計事務所でも・・・
私みたいに設計マンが
伏せ図を描いたことが
無いこと自体は
業界的には普通のことなのです。
『伏せ図が必要なのですか?』
『おかしいなあ、所長に
頼んであったのに・・
しょうがないなあ、
ここで描いていってよ!
オオシマサン』
”私はパニックです”
といいたくなる気持ちは
分かってもらえるだろうか?
描いていってよと言われて、
私はどうすべき
だったのだろう?
伏せ図を描く能力なんて
マルでない私。
しかしわざわざ大阪まで
設計事務所員として出張してきて
何も知らないーじゃあ、
かっこ悪すぎる。
でも恥を忍んで
『すみません、伏せ図
描いたことがないのです。』
正直にそういうしか選択肢は
やっぱり無いですよね。
『えー、しょうがないなあ、
今から一緒に仕上るか』
その後、担当者が私に
レクチャーしながら
ようやく必要な伏せ図が
1棟分出来上がった。
全部で10何棟の区画の
たった一つが終わった。
『もう時間も遅いので、
今日は持ち帰って
あとの図面を仕上て
またきてください』
レクチャーしながらなので
たった1棟でも
時間は随分かかってしまった。
担当者に残業させて
しまった事と、
またさらに
図面の納期を伸ばさざるを
得なくなってしまった事もあり
ダブルでばつの悪いこと。
しかし担当者さんは
ありがたくも
居酒屋に誘っていただいて
今度は私のペースで
時間は過ぎた。
『あんたみたいな人が
私の娘の旦那ならなア』
と冗談が出るくらい
ご機嫌な宴会でした。
そうして名古屋に
戻ってきたわけなのだが、
残りの図面作成を考えると
目の前はまた真っ暗に!
1軒分を目の前で
聞いただけでわかるほど
木造が簡単な訳が無い。
事務所の誰に聞いても
あまり知らないだろうし、
また知っていても
会社内のムード自体が
所員同士が相談する
という場ではなかったことで
私はどうしたかというと・・・・
第4話 大工と息子
私はどうしたか
というと・・・・
父親に教えてもらったのだ。
父親は14歳から大工で
そのときは工務店の
社長だった。
プロが身近にいたわけだ。
そして初めて父親から
建築のことを教わった日が
来たわけです。
そしてそれは
木構造のおもしろさが
判った気になった日
でもあったのです。
結局、残りの10何棟の
伏せ図を完成させたときに
感じたのは疲労感より、
達成感だった。
『おもしろいじゃん!!』
設計事務所に入って、
初めての満足感が
感じられたのだ。
でもそれがその事務所での
最後の仕事になって
しまったわけです。
第5話 デジャブー
そしてまた私は大学の
S教授の部屋にいた。
私
『すみません!せっかく紹介
いただきました
H設計事務所ですが
辞めることになりました』
2年前と同じ
シチュエーションだ。
S教授
『今度はこれから
どうするつもりだ、
あてはあるのか?
そろそろお父さんの会社を
手伝わなければ
いけない頃じゃないのか?』
私
『実は父親の
子会社があるのですが
今年がんばって
1級建築士をとって
その子会社を設計事務所
にしようと思っているのです』
S教授
『独立するのか?大変だぞ!
設計の仕事のあては
あるのか?』
私
『父親の会社の仕事は
あるのでしょうが、
小さな会社なので
他にもがんばって仕事を
作らなければと思っています』
S教授
『そうかー。
それなら構造設計の仕事
をする気はないか?
OBが今度名古屋で
構造設計事務所を
開設したので、
その気があるなら
何かと仕事はあると・・・』
”願ってもない話だ!
でも構造設計事務所の仕事と
いったらまた
一から勉強だなあ”
”しかし木構造の伏せ図を
描いたときは面白かったし、
鉄骨や鉄筋の構造も
覚えたら面白いかもな”
そう考えをめぐらせた時間は
ほんの1,2秒だった
(はずだ)
私
『は、はい、お願いします』
(こんな展開になるとは、
心の準備も
全然してなかったけど
これも流れだ)
(あれ?2年前と似たような
状況だなあ)
S教授はメモをめくり、
おもむろに電話を掛けだした。
やっぱり2年前と
同じシチュエーションだ。
持つべきものは
いい先生だなあ。
そうして
わたしは意匠設計と、
構造設計の両分野の仕事を
始めたのだ。
第6話 いつかあなたに
構造の仕事は思っていたより
ずいぶん大変でした。
パソコンソフトも
いまよりずっと
高価な時代でしたから、
すべて手計算で
構造計算をするわけです。
(現在手計算で構造計算する
人は少なくなって
しまったでしょう)
しかし会社には私一人、
誰に聞くと言うわけにはいかず
まずは手計算をするために、
参考となる書籍を
探すことから始まりました。
そして探してきた
書籍を読んでみると
見たことある気がする
計算式なのだが、
それが実際に計算する前に
理解しようとしても
さっぱりわからない!
たった一つの式の意味を
理解するのに
結局1日かかって
しまったことも
ありました。
情けなくて
涙がにじみそうでした。
正直言うと単位ですら
混乱していました。
この式で使うこの符号は
t(トン)なのかkgなのか,
これはmなのかcmなのか
でさえ・・・
複雑な計算式の中で単位が
一桁違うということは
まるで意味がない
わけですから、
単位はもう本当に
基本の中の基本なんですね。
おかげで単位の大事さも
よく身にしみました。
学生時代に本当に
サボっていたので、
罰が当たったのですね。
(こんなにお世話になる
S教授の授業最中に
抜け出してテニスをしに行った
私がヤッパリ馬鹿だった!)
1人で仕事を始めて、
上司も、同僚もいない中で
構造の基本を一つ一つ
覚えていくしかなかったので、
当初は一つの計算を終わるのに
人の5倍くらい時間が掛かった
のではないでしょうか。
そうするうちに
構造設計事務所からの仕事や
またその紹介で
大手ゼネコンさんの
構造設計部に出入を
するようになって
いろいろな会社の仕事方法も
目にする機会が増えました。
結果的に良いことのほうが
多かったのです。
なぜならば、
そうこうするうちに、
構造を知ることにより
建物の全体像が
よくわかることに
気がつくようになりました。
『なるほど、★★★にいたとき
現場であの仕様に
なっていたのはこういう
わけだったのか!!』
『設計事務所勤めの頃、
構造をもっと
理解していたら、あのような
不経済な図面は描かなかっただろうな』
という事がわかるように
なってきたのです。
そうなると建築の面白さが
また変わって来たのですね。
友人Wがこういったのを覚えています。
(その友人Wとは
S教授の授業中に
テニスに誘ってくれた
張本人なのですが)
W
『オオシマは学校では
一番のほほんと
してたように見えたけど
(勉強して無かった
という意味だろう)
社会に出てからは
一番勉強してるんじゃないか?』
持つべきものは友人だ。
そんな言葉が私を支えて
くれてもいたのです。
おかげさんで今では
”構造に詳しい
工務店の設計部長兼社長”
HP上などでは
住宅の調理人という意味で
”シェフ・オオシマ”
になっているわけです。
この後は
またいろいろな
人間ストーリーがからんで
設計事務所、
構造設計事務所で
出会った人たちと
再会するお話があったり、
またこんなお客さんに
出会えた!
なんてお話が
たくさんあるのですが、
いつかあなたに
出会うときまで
その話は大事に
取っておきますね
了